Mifeenaの日記

2006-09-04ほんのりらぐなろく。

[]2001年4月ごろの自分~この世のなにか~ 10:38

かなり怪文書ではあるけど。

今でも変わらぬ部分は。

・一般的に言われる神と言われるものとは別のものが存在してそう。

・世の中のニーズに合わせて変遷していった既存宗教は信じることができない。

 

◆◇◆◇以下原文◇◆◇◆

今日徒然草~(2001. 4 . 9)

 

 ほぼ、五ヶ月ぐらいの更新になります。今日徒然草です。

 トム・ハンクス主演の「グリーンマイル」ようやく見ました。トムさん主演のは、

 「プライベート ライアン」以来です。(DVD購入で)

 で、感想ですが、結構いい映画でした。プライベート ライアンのように落涙することはなかったですが、

 感じ入ること、多々です。

 「無実」を知りながら死刑執行を行う。

 職務に対する、忠実さや誇り。それを上回る囚人への想い。とか、描けてます。

 (あえて、注文つけるなら、その辺の葛藤をもうちょっと、感傷的・感動的に踏み込んでほしかったですが)

  作品本編から感じたことより、身内の曽祖父に対する想いが生まれるきっかけになった作品になりました。

 

 以上。前置き。

 

  私の曽祖父ですが、なにげに離婚家庭なので、血はつながっていても戸籍上は他人です。

 非常に元気で95歳まで畑仕事をしていた恐るべきパワフルじーさんです。(笑)

 (あの血が私にも流れていることがうれしいです)

  ひいじいさんが、特別な存在になったのは13年程前からです。

 正月、生まれ故郷鹿児島に帰ると、私たちには「お年玉」という、イベントがあります。

 その年の正月まで、もらえることが当然。少ないと心の中で悪態をつくような少年だったのですが、

 バイトをするようになってその辺が一変しました。

 年金生活を送るお年寄りが、その収入から孫や曾孫にお年玉をあげている。

 それに思い至ったとき、急にもらうこと自体に引け目を感じるようになったのです。

  

 親戚への新年挨拶の最後が、田舎に住む曽祖父でした。

  

 曽祖父はやっぱり元気で、100歳になっていても、背筋がしゃんとしていて、

 一年前と変わらないように見えます。

 でも、70年をこえる年月を連れ添った、曾祖母が前年に亡くなっていたので、

 若干の表情に陰りは、隠せないように見えたのを覚えています。

  やって来た曾孫に、いつもどおり「お年玉」をあげようと封筒を取り出したのですが、

 私は固辞しました。「絶対にもらえない」と頑固に言い張る私にむけた、曽祖父の目がすごく印象的でした。

 「深く、見透かすような目。でありながら、探られることを不快に思わないような複雑な目」です。

  お年玉はもらいませんでしたが、その年からはとても、貴重な話をしてもらえるようになりました。

 以後、曽祖父は私が訪ねてきても、お年玉を用意しようなどということは一切ありません。

 それが非常にうれしく、また、誇りに思えたことです。

  

 曽祖父の話はどれも1世紀に及ぶ経験や、哲学めいたことがあって、どれも記憶にとどまっているのですが、

 ひとつ挙げるなら、私の宗教に対する概念を微塵にした話があります。

 今回はその話と、それから派生した私の考えみたいなものを書いてみようかな?と思います。

 

 

 既存宗教は多々あります。2000年を超える歴史を持つものもありますし、新興のものもあります。

 わたしは、無神ですが、既存宗教の神を信ずる人を否定する気は全くありません。

 それぞれの神への信仰を考え方の中心に据えたり、生きる寄りしろにする方の思いは、

 かけがえないと思いますし、それぞれの人の「真実」であるのだから、

 否定すること自体意味を感じません。

 

 しかし、それぞれの時代のニーズに合わせて変遷したり、分派したり、抗争したり。

 また、各経典と、現実社会での矛盾等を考えると、私は信じることができません。

 

 が、神そのものの存在自体は否定はできてないです。(実際存在を感じたわけじゃないですが)

  

 曽祖父の話で出てきたのが、その「なんらかの偉大な存在」の話です。

 曽祖父も既存宗教の神への疑念は強いようでした。

 しかし、この世の森羅万象における、不思議存在は感じるとのことです。

 一つ例を挙げるなら、

  

  地球の活動で、海底が隆起し、新たに島ができる。

  やがて、風が植物の種を運び、徐々に島の様相が整っていく。それだけなら、

  ありふれた自然の一現象としか感じません。

  そしてが、住み着き、野鳥の楽園が出来上がっていく。

   が、陸上生物が住み着き始めるプロセス不思議でしょうがありません。

  近場の島から、その島への経路は「海」以外存在しません。

  事故で流れ着く確率たるや、極小過ぎます。

  それに、それまで不自由なく暮らしていた、その島の生活を捨て、

  なんで、その島に行こう!と、それら陸上生物が考えるのか不思議です。

   しかも、新しい島で増えていくには「オス・メス」のつがいが不可欠なのです。

  私は曽祖父の話を聞いて驚くとともに、つがいの動物が、その新しい島にたどり着く確率を、

  想定するのも馬鹿らしくなりました。

   しかも、新たな島に、複数の陸上生物が住み着き、そこであたらしい、生態系のピラミッド

  形成してゆくのです。どう考えても、不思議です。

  (南方の島なら、オオトカゲすら海岸にでて、流木に乗っかって海を渡るのですから。

   なんで、海の向こうに、新しい島ができているのかを知っており、

   海岸に出てみて、危険すぎる海を渡ろうとするのか?

   そのオオトガゲに理由を尋ねたいくらいです)

 

  この例だけじゃないですが、地球上の生物が住める生活圏を広げ、用意し、

  そこに生き物を住まわせていく。そこら辺に「なんらかの偉大な存在」を感じます。

 

   曽祖父の話から派生させた、私の考えなのですが、

  今、地球の陸上には、「人間」が繁栄しています。この繁栄すら、その存在が既定したものなのでは?と。

  進化の頂点にあり、生活圏を独自に広げていく「人間」。

   もしかしたら、「何らかの偉大な存在」なんて、存在していなく、私たち全生物遺伝子に組み込まれた、

  共通の方向性(本能レベル遺伝子レベルで共有するベクトル)かもしれませんが、

  少なくとも地上では人間は繁栄しています。

   今、環境破壊とかで、地球を痛めつけておりながら繁栄している人間とは、なんなのか?

 

   考えたのですが、それすら許されているのでは?と。

  生活圏の拡大が、意思であったり、方向性であるとするなら、「宇宙への生活圏拡大」というのは、

  大きな進展だと思えます。

  それが、可能なのが人間だけなのだから。

  宇宙から生まれた地球という星。地球で育った生命が、また宇宙に戻り、広がっていく。

  地球が生まれて50億年ほどという時間は、宇宙スタンスで考えると、短期間ですらあるのかもしれません。

   米ソの冷戦をある一面、「宇宙開発」という面で捉えると、張り合いからとはいえ、

  すさまじい熱意とスピードであったように思えます。その一面だけなら、

  私には米ソ冷戦終結は、悲しいものです。

    

   早い段階で宇宙進出を成就し、文明圏の人類は全て宇宙に移り住み、

  地球を自浄のサイクルに立ち戻らせることができたら?

  環境破壊への対策も重要ですが、根本的なものを考えると、宇宙開発重要だと思います。

  変な理論に思える人も多々いるでしょうが、この方面に関する私の考えは上記のとおりです。

 

 

  映画を見ていたら、不思議な力を持った囚人から、その力を受け継いだばかりに、

  死ぬことができなくて、長い年月を親しい友人たちが死んでいくのを見守る。

  映画ラスト主人公から、曽祖父や、その言葉を思い出しました。

 

  戸籍上他人になってしまったので、連絡が取れなくなっています(向こうに電話がない)。

  今も元気にしていることを、祈ります。(健在でしたら110歳・・・・・)

 

  *文中の「なんらかの偉大な存在」ですが、現代の経営神様といわれる、船井氏は、

  「Something Great」と呼んでますね。直訳すれば「何らかの偉大な存在」。

  曽祖父が、まさか船井経営哲学の本を読んでるとは思えないですが。(10年前だし) 

 

◆◇◆◇ここまで◇◆◇◆

2006-06-22うなうな

[]2001年4月頃の自分~国とかいろいろ~ 10:15

ちと前後を組替えて。2001年の4月のほうから。

内容的にはちょうど小泉首相内閣発足させる直前ですね。

2001/4/24に小泉内閣発足とあります。

痛みじゃぬるくて犠牲まで強いないとこの国やばいぞ、と書いてますが。

一部犠牲を伴う国政は一応施工されたんじゃないか、と。一部評価。

当時思っていた大きな三点のうち一点だけは記述したんだけど。

のこり二つを書かずにここまで来てますねえ・・・。

なんか古い宿題を思い出した気分です。。。(笑)

 

当時はここまで個人投資による株式が盛況になるとは思ってませんでした。

(ちと、先日水をさすような事件がおきてますが)

ただ、諸外国による日本の現金を吸い出そうという流れはまったく変わっていないかと。

日本保険会社や投信などが面白いメニューを出してきていたりして。注目してます。

日本お金を流す分にはまったくOKかと。

当時は結構円・ドル為替で大荒れだったので、こういう風な論調なのかな、と思い出してみたり。

 

「できるだけ長く健康国家

国とて倒れます。でもできれば健康に長持ちさせたいねっと。

国への大規模な手術(外科か内科か精神科かは想像におまかせ(笑))が必要ととらえてます。

 

市況は回復してきてます。

でも体感している人は一部だったり。よくテーマにのぼる「格差」がはっきり出てきましたね。

この国が「日本」である必要はないかもですが。

子供の目がキラキラ輝いているような国。

そゆのが、いいなあ・・・

◆◇◆◇以下原文◇◆◇◆

今日徒然草~(2001. 4 . 22)

 

 さて、今回は早めの更新になりました。

今、自民党総裁選とかやってるので、更新するにはいい機会かなぁ、と。

ちょっと、今日の徒然を除いて,三本立てになるんですが、ちょっと、日本の国政について思うことなどを。

いつもの調子でツラツラと書いてみようかな?などと、偉そうなノリです(笑)

 

 さて、日本の政治化への不信とか国政への不信とか広く報じられて,長い時間が経ってますが,

その意味では,現在政治は「全くといっていいほど」対応できてないと、感じています。

国民は、何を日本の行く末に不安を感じているのか、政治家馬鹿ではないので,つかめているにもかかわらず、

現在の状況です。

責任回避の顕れと、一言で言ってしまうのも乱暴ですが,その系統かと。)

 

 私は,今の日本に必要なのは大きな三つの問題に対する、解決でずいぶん改善するのではなかろうか?

と考えています。

 1 少子化問題人口が減ると、国は活力を失います。亡国の気配です)

 2.間違った歴史認識による、日本国民ナショナリズムの欠如(自虐史観の行き過ぎ)

 3.高コスト構造

各,項目で、もっと詳しく書いてみようとは思いますが、

以上の三点を改善すれば,大きな視点で前進は可能かな?と思っております。

 

 今の政治で不安なのが、長期的視点での政策論争の欠如。論争ですら、欠如しているので,実施されないのは

当然。

 株や不良債権国家財政の赤字。それすら、短中期の施策に思えます。

短中期の視野の狭い改善をどうのこうの、いって、何年もちっとも改善されないから、いま、不安が大きくなって,

「閉塞感」とかいう、単語が蔓延するのではないか?と、思っています。

 

 国民に痛みを伴う国政。とか、候補者は述べていますが、

私は,「痛み」ではぬる過ぎると。「犠牲」が必要な国政。。。この言葉が,政治家からもれたなら、

その政治家の発言を括目して聞き入るだろうと、私個人は思います。

いま、日本で生活を営む全国民。さらに、本日今の時刻に産声をあげる、赤ん坊ですら、その犠牲を受け入れる。

3世代ほどを犠牲という憂き目にあわせてでも、再建を推し進めていく。

過激と十分承知ですが、そのくらいの覚悟と犠牲を払わないと、今の状況打破は厳しいのでは?

と、そういう視点に行き着いた次第です。それも、着手は遅くなればなるほど致命傷が広がると・・・・・・・

 

 大東亜戦争からすでに半世紀以上経ちますが、私は、

日本はまた、別の面で戦争中なのでは?という、持論を持ってます。

はっきり国名を挙げますが、「アメリカ合衆国」と、血の流れない経済面で戦争していて、

しかも、段階的に敗戦間近ではないか? と、感じています。

 

 日本国民の貯蓄額は、世界に比類の無いものです。

バブル崩壊に伴う、日本金利の低下で、銀行に一般預金者が預けても,メリットが無いという状況がすでに長くなって

います。それでも、預けないわけにいかないので、銀行や信託系金融機関運用を任すわけですが、

金融機関も,この情勢では、国内での資金運用が難しくなります。

となると、外国の利率のいい国債等に手が伸びるわけですが、

アメリカバブルを下支えしたのは、アメリカ国債が売れたからであり、それを引き受けている国が、

ほぼ日本そのものであることは、どのくらい認知されていたのかな?と、不安です。

 

 今は,危機といわれていますが、絶頂期のアメリカバブルを支えたのが、不況にあえぐ、日本であること。

それすら知らないのは,、若干危険かなぁと認識しております。

 

 そして、日本にばら撒いた、アメリカ国債は、「為替の操作」で、何とでもできるんですよね。正直。

絶頂当時の円相場を「円高」に振ることで、アメリカは、返す借金を大幅に減らすことができる。。。。

この事実恐怖です。。。

 

 さらに、もう成人してるような年代の人であれば、「円相場の乱高下」

(80円切った頃とか)は、記憶に新しいと思います。

はっきり言って、アメリカは、自国でどう動いて,どう情勢を作れば、

「円」は暴れる、ということをシミュレーション済みであり,

簡単に、借金を目減りさせることができるのでは??、とかなりの確度で疑っています。

(軍事的に言えば、どのような情報操作による、敵軍混乱シミュレーション済みということ)

 

 私は、この血が流れない戦争の終末を描いてみるなら、「IMF」による、完全統制下による、

日本の管理化・・・・・・というのが、敗戦イメージではなかろうか?と思っています。

IMF国際機関であろうと、実態は「アメリカ合衆国」のテーゼであって、

アメリカの統制下に入ってしまうことと、大きな大差はありません。

 

と、考えていくと、これって半世紀前の戦争の状況と結果と、あまり変わらないのでは?

という、発想に結びついてしましました。

だから、「戦争」という、物騒な単語を使ったわけです。

 

 半世紀前は、たくさんの日本国民が,戦火に倒れました。

それで、今の日本があります。

 現在の今の状況を、果たして「痛み」などというレベルで打破できるのか?

はなはだ疑問です。 血が流れなくとも、「犠牲」という過酷な状況を受け止めて、

そこから、スタートしないと今の「戦時下」にある、日本の状況は、一向に打破されないのでは?

過激かつ、変な持論であるのは、自覚してますが、今の私の、不安から発生する考えです。

 

 なお、アメリカ式の「401k」ですが、私はこれを日本トドメを刺す、驚異的な兵器に思えます。

世界が、舌なめずりする、日本一般国民貯蓄ですが、自己運用の名のもとに、

ついに、個人の貯蓄まで、直撃できるようになるんですね。

私は,経済素人なのですが、これにより、日本国民の持つ貯蓄が、恐ろしい勢いで、流出するきっかけに

なるのでは? と、正直疑っています。(もちろん、私の推測などが外れれば幸いです)

 ただ、外資生命保険等のメディア露出が、激しいのを鑑みると、上記の懸念を撤回できません。

日本の大きな預貯蓄をねらって、盛んな活動をビンビン感じます。

 

 半世紀前の戦争で、米国から、「クレージー」と、表された、「神風特攻隊」。

 2000年を過ぎて、「特攻隊」が再現するのを恐れます。

 生活に行き詰まって、一家の生活のために,率のいい外資保険保険をかけ、自殺する一家のお父さん。。。。

 最悪の想像です。こんな国家の姿なんて、こんな日本なんて見たくないです。

 

 妄想レベルまで膨れ上がった、私の不安ですが、どうも、今の総裁選候補者=次期総理は、

 私が妄想を生み出すような懸念を振り払ってくれる発言を、一度もしてくれていない・・・・・・です。

 

  つぎは、少子化のことについて、いつになるか分かりませんが、徒然なるままに、書いてみようと思います。

◆◇◆◇ここまで◇◆◇◆

2006-06-19まーたSSアップがあああああああ

[]~2001年5月頃の自分 巨石っていいよね(´¬`)~ 11:13

趣味っぽい話。ガーベラ好きも、巨石文明好きもかわってないけど。

あの頃に行かなきゃ!とおもってた南米ぶらり旅。

いまだ実行できず。。。

話の中のホテルの主人も、10年くらい行きたいと思ってて。

ようやく行けたとのことで。

マニア垂涎の古代都市。。。。

久々に自分の過去の記事見ていろいろ検索してみると。

5年前とはやっぱり情報量が違う。

こいつらあああああ行きやがったのかああああ、と。

まあ、普通にジェラシー(*`з´)

 

 

◆◇◆◇以下原文◇◆◇◆

今日徒然草~(2001.5.23)

 私、仕事出張多いんですけど、遠出っていいですね。

旅先で人に会うのが大変お気に入りです。

友人とかですと、まぁ旧交を深めたりするんでしょうが、見知らぬ人と語り明かす場を

思いがけなく得てしまうって、素晴らしいな。と、思います。

今回は、旅先で会った人たちのことを徒然に書いてみようかな?、と思います。

 

 先日東京出張に行きました。

行きの新幹線指定席満席で、やむなく自由席新大阪から、名古屋まで立ちっぱなしだったのですが

立っている間中、ずっと話していました。

 私は、何気に園芸とか好きなんですが(ガーデニングとはまた違う)、

一緒に話していたおばさんもかなり園芸好きで、

しかも好きな花もかぶるんですね。

 二人ともガーベラに目がない。たぶん異常なくらい。(笑)

やれ、株分けの時は気合いがいって大変や、とか。

やれ、根本までの日差しの量が云々、とか。

やれ、土は2年越しに作るもんだ、とか。

やれ、種から育てると、売り物になるくらいな立派な花は4年後だとか。

 いやー。ディープです。

しかし、苗を買ってきて育てるのは、まぁいいんですが、種から育て上げた人に出会えたのは幸運です。

切り花は、苦手なので鉢植え派なんですが、

しかも、ガーデニングで使うような狭い鉢に、いくつもの花を植えるのも嫌いなことも共通。

大阪ガーデニングフェスタにも来てたらしく、早めに会いたかったですね。

 とても、有意義でした。

 

 あと、思い出すのは愛媛道後温泉に泊まったとき。

これも仕事だったのですが、この日、疲れていたにもかかわらず、徹夜で語り明かしました

 その話の男性は、ホテル経営者

しかも、泊まって気づいたのだけど、「ヤバめ」のホテルだったらしい。

(もちろん一般客も泊まれるけど「そういう用途」にも使える、、、とのこと(汗))

 ホテルのマスターと語り明かしたネタは、南米遺跡のこと。

いわゆる考古学です。

 8時間延々とやってしまいました。語り。

考古学も大好きです。

そのマスターは念願の南米旅行を9年越しでかなえたらしいです。

やっぱ、働きだして旅行の夢を叶えるのは結構時間がかかるものだ、と

すこし思い詰めましたけど、マスターの話、ハマりました。

(マスターオリジナルラーメンニンニク炒めのタマネギが入ってて、これもうまかった)

 

 視点・着眼点が非常に似通っていて、これまたディープな話に、30分で突入(笑)

写真をたくさん撮ってこられていたのですけど、

普通の人が見たらなんで、こんなの撮るの?というもの。

 南米の巨石文明なのですけど、その方の写真

・巨石の建造物の、石組みのコーナーの部分のアップ。

部分の不規則なサイズの石組み。

・巨石のエッジ部分のみ。

ナスカの地上絵の砂を手に乗せたアップ(<地上絵に踏み込むのは違法<(汗))

 とか。。。。ばっかり。

一枚見せるごとに、この写真から気づくことある??

と、マスターに質問攻めされます。

 私も同好の士の端くれですから、負けてられません。

意地でも相手の意図するようなことを発見して、自分なりの意見を言います。

 意見の相違があっても、お互い譲らないんですね。なんといっても。

実際マスターは現地に行ってるので、ある程度受け入れるんですけど、

意見根本で異なると、もう、論争です。(笑)

 

 マスターも疑問や観点を持って、現地に行ったと聞いたのですけど、

さらに好きな連中は、現地に住んじゃうんですよね。(日本人です)

マスターも現地で、その在住の日本人と論争やってきたらしいんですけど、

現地人の頑固さは、たまらなく好きだ、とのこと。

そりゃあ、一度来たくらいの旅行者に言い負かされては、たまんないでしょう。

 好きで好きでたまらなくて、住んで研究してるんですし。

 

 夜明けまで話し合った後、「あぁ、やっぱり行きたいな。マチュピチュ」と強く思いました。

悔しかったですから。行ったことがあって語る人と、想像・洞察・知識で話してしまう私のギャップが。

もちろん、愛媛にまた泊まることがあったら、

そのホテルに泊まることは言うまでもありません。(笑)

 今度は、仕事差し支えないくらい(!)に、ディープな話をしてみたいと思っています。

  

 遠出は、たまに辛いときがあるんですけど、思いがけない出会い

これ、やっぱりたまりませんね。(笑)

 

◆◇◆◇ここまで◇◆◇◆

 

2006-05-31めひょーん

[]2002年1月ごろの自分~思考の道の両端に~

2002年の開始のコラムっぽいのはなんか硬くはじまってるなー。

何があったんだろう。

第一印象のインパクト

それにとらわれず思考の道の両端を行かずに真中を意識したい。

両方の極論から導かれるかもしれない中道な考え。

広く。広く考えは持ちたいね、っと。

◆◇◆◇以下原文◇◆◇◆

今日徒然草~(2002.1.17)

 今年で、もう4年目になります。今日徒然草

今年何回更新できるか分かりませんが、

読んでくださる方もいらっしゃるようなので、今年も書き続けると思います。

 ちょうど一ヶ月ぶりの更新です。(このペースでいければ最高なのですが;)

先月に「偏見」というものをコアに書いてみたのですが、

今回は第一印象とか考え方みたいなことを、徒然なるままに書いてみようと思います。


 「自分の考え」って、一体何なんだろうか?

そう思います。「自分らしさ」とか「個性」とか言われますが、これも謎です。

思考を進めていくと、「客観視」の実体がほとんど「主観視」であるように、

「自分の考え」と言いながら、人の言葉や書物を織り込んで構築したものに思えます。

 私の印象で言うなら、「自意志で採用した考え」というものに思えます。

  (上の客観視という言葉はあんまり好きになれません。

   「他人もこう考える・こう見るはず」、と勝手に規定して使ってるように思えて、

   あんまり使いたくない言葉です>私個人は)

 こういう風に言ってしまうと、「自分の考え」というものが揺らいでしまうようですが、

それで良いんじゃないか?と思います。

 むしろ揺らぐのが自然じゃないかな?と。

 この世の全ての事象を知っている人間なんていません。

そうである以上、知識というものが新しく流れ込んでくるのですが、

(人が営みを続ける以上増え続けるものですし)

その新知識というものの捉え方が、とても大事に思えます。

 知識の第一印象というものが、とても大事に思えるのです。

新しい知識というのは、その人に流入した際、

その人を、その色に染め上げてしまうように感じます。

例えば、新種の病原体に、抗体を持たない人間が、なすすべなく感染してしまうように。

良くも悪くも、「新知識」はその人を、染めてしまうんじゃないかな?と。

人類が初めて体験するような事が、その人を染めてしまうのはやむを得ないです。

でも、多くの事象には先人達の書物や言葉があると思います。

そういったものを、「新知識」と全て鵜呑みにしてしまうのは、少し危険に思えます。

 自分でその思いを抱える分にはいいのかもしれません。

でも、仕入れた知識を、唯一の価値観のように他の人に伝えるのは危険に思えます。

 世の中に流れる、たくさんの情報・考え方には、人の数だけ無数に存在しています。

そのたくさんの考え方も、切り分けていくと、それ以上ないように思える、

「極論」というものが存在しているのでは、と私は思います。

その極論を「テーゼ」としたならば、対極にある意見・考え方というものが、ほぼ存在するはずです。

テーゼに対抗するものとして、「アンチテーゼ」と呼ばれますが、

一つのテーゼには、必ず別の事を言う、「アンチテーゼ」が存在するはずです。

 抽象的な言い方になりますが、自分を真ん中においた時、

真っ直ぐ先にのびる道で、それぞれの端が、テーゼアンチテーゼにたとえる事ができると思います。

ここではテーゼアンチテーゼを「極論」としていますが、

道が道である以上、両端は交わりません。平行線です。

 極論は極論であるがゆえに、交わらないものです。

 妙な抽象的例えですが、もう少しだけ。

考え方を道筋としたならば、その両端。

そして、その真ん中。

実在する「道」というものは、真ん中は少し盛り上がっているものです。

(雨は真ん中に溜まらず左右に分かれます)

真ん中が盛り上がっているなら、その両端。

両端からは、互いを見通せません。

逆に、真ん中からは、両端を見通す事ができます。

 例え話をやめて、もどりますと、

「極論は交わらず、互いを認め合う事ができない」。そういう風にいえるように思えます。

問題は、自分が仕入れてきた新知識が、極論であった場合。

 一気に視野が狭くなりそうです。

仕入れた知識が極論かどうか、判断するにしても、

「新知識」を判断する判断材料が不足しているので、それは難しいです。

 では、どうすればいいのだろう?

「これは初めての知識」と思えたら、ひたすら情報を仕入れるしかないように思えます。

判断材料を増やすという意味で。

 仕入れを続けていると、最初に仕入れた知識というものの、輪郭がはっきりしてくると思います。

書物から仕入れる知識を例に挙げるなら、

・最初に読んだ本 > 参考文献 > 参考文献が参考にしている本

・最初に読んだ本 > 最初に読んだ本の著者が批判や攻撃をしてい本 > その本の参考文献。。。

上のように、読む幅を広げていけば、おのずとその知識が「深く・広く」なっていくように思えます。

 両極論を対象にして、それぞれの良い点悪い点を挙げているような本も重要です。

 (人が話す「意見」にも同じような例えが当てはまるはずです)

 

 上のような手法を進めていくと、

最初に仕入れた知識というものへの印象が変わってくるんじゃないでしょうか?

大きな変化はないかもしれません。

180度変わってしまうかもしれません。

 変わって良いじゃないですか。

 私は、幸い本の著者やプロのコメンテーターではありません。

自分の採用する考え方を変えやすい立場にあります。

 (いったん、本として形の残るものを発表したりすると、転進を難しくする風潮がありますし。

 日本人は「レッテル張り」や「分類」するのが好きらしいので、政治家とかプロはきついですね。。。)

 調べるのには時間かかりましたが、考え方が変わってしまった経験なんて、山ほどあります。

 新しい知識が入ってくると、方位磁石の針が大きく震えるように、大きく揺らぐように思えます。

でも、たくさん知識を仕入れると、安定してきます。磁石の針が安定するように。


 自分の考えという道を、時に左右にふらふら歩きながら。

 手に持った方位磁石の針の揺れを気にしながら。

 なるべく道の真ん中を歩けると、いいなぁ。 

 と、そんな風に思います。

 

 それでは今年もよろしくお願いします。 

◆◇◆◇ここまで◇◆◇◆

 

にしても、面白くないスタート(´-`).。oO()

何度もいろんな考え方に染まっていいじゃない。ってとこは自分で読んでても、

かわらんなーと思う(笑)

2006-05-30充実な日

[]2002年2月ごろの自分~心のわりざん~ 14:41

3つほどトピックを挙げれるけど。

うん。ザクザク割り算してますね・・・今まで。

心の余りは、そうだなあ。どこに行っているんだろうねえ・・・(遠い目)

追記に最善の選択は好きじゃないって書いてあるけど。ここのスタンスは変わらないなぁ。

 

 

◆◇◆◇以下原文◇◆◇◆

今日徒然草~(2002.2.17)

 一ヶ月ぶりの更新です。長期出張環境が激変して、調べものするにもツラい環境だったりします>現状。

図書館近かった、つい2週間前が懐かしい。。。

 

 今回はショートです。一応、作成予定の漫画同人誌ネタ候補には挙げてますが、

頭の整理のためにも、文章に落とそうかな?と。

(文起こしながら、絵コンテ化が可能か?と、模索しつつ・・・)

 今回は、「物事を割り切って考える」というテーマで、徒然なるままに書いてみようと思います。

もし、管理人の駄文に付き合っていただければ幸いです。

 

 

 

 人って生きていくにあたって、何度も何度も選択を余儀なくされる場面に直面すると思います。

進学?就職恋愛結婚転職

大きめの岐路じゃなくても、きっと毎日「何か片方を選択」し、「何か片方を切り捨てる」という繰り返しじゃないでしょうか?

 私も**歳という歳が若いかどうかは置いても、

記憶に残る大きな選択を繰り返して、今の自分がある。

 そう確信できます。

 

 そういった「選択」を迫られた際、必要なのが判断し、割り切る心。

無難な選択を選び、それが「妥協」やある種の「逃げ」であっても、

「自分はこれでいい」、「仕方ないけど、これだ」とか、どこかで割り切っていると思います。

(もちろん最前と思える選択を繰り返してこれるなら、幸せなんでしょうけど)

 選択しなければ先に進めないんですから、「選ぶ力」というのは生きていくにあたって当然必要だし、

選択する力がなければ、果たしてそれが「人」と言えるのか?と厳しめの意見もあると思います。

 それに決断が早く、その決断に後悔する素振りも見せない人は、颯爽と格好良く、目に映るかもしれませんね。

 

 

 話は少し変わりますが、私は「算数」が苦手です。特に割り算。

大きめの数の割り算なんて、小学校で割り算を習いたての学生のように、式を書かないと出来ない、

大人として恥ずかしい(?)人間だったりします。

しかも、「余り」とか出た時には、えらい騒ぎです。暗算なんてできっこないです。本当に。

 そんな出来損ないの学生が大きくなったためか、「心の割り算」も苦手な項目だったりします。

「心の割り算 ≒ 割り切る心」がへたくそです。

 決断心が弱くて、優柔不断か?となると、それはまた別次元の話で、

何かを割り切って考えるとき、「そんなに簡単に心を割り切ることなんて出来るんだろうか?」と、

つい考えてしまうのです。

 心が正数の割り算のように、デジタルっぽく「割れる」ものなら何も苦労はないように思えます。

でも、思いっきりアナログなものですよね。人の心って。

 判断の場面で「割り切る力」を駆使しても、心のどこかに算数で言う「余り」みたいなものが、

その都度発生しているんじゃないだろうか?

 そう思えるのです。

 

 別にこれを書いているからといって、「優柔不断」万歳といっている訳じゃないです。

やっぱり生きていく以上、何かを割り切って判断せざるをえないのですから。

 でも、

「心なんて、そんなに簡単に割れるもんじゃない」

「割った心の余りはどこに行くの?」

「割れた心の余りも、なるべく自分だけは覚えていてあげたいね」

とか、念頭に置きながら、日々をどうしても慣れない割り算能力を駆使して生きて行ければなぁ。

そんな風に思います。

 

 

   #追記

   「最善の選択」って、イメージ的にあんまり好きじゃないような気も。

   なんかシャープすぎて。

   鉛筆で例えると、研ぎたての鋭すぎる芯みたいな。

   鋭すぎて、その「一点」にしか通用しなさそうで。。。ある意味怖いなぁ、と。

   さらに鉛筆で言うなら、少し丸まった。点じゃなくてちょっと太めの面のような。

   最善の選択よりも、「よりベターな選択」ってのが好きかなぁ、と。

   他でも潰しの利くような選択が好みかも。。。ふと、書きながら思いました。

 

 

 (#本当に駄文になってしまった; もうちょっと推敲が必要だと自覚です。。。)

◆◇◆◇ここまで◇◆◇◆

 

変わったところと、変わらないところ。やっぱり見返すとあるものだね。

原文で年齢のとこだけ、伏せました(*`з´)